2019年4月22日月曜日
初雁公園の死
マスメディアの報道によりショッキングな事実を知った。初雁公園周辺が大規模な再開発をされるとのことである。私はこの報道を読んだ時、胸がえぐられる思いがした。市内唯一無二の懸垂ポイントであるHM-01も、再開発によって解体され、廃棄されるのではないかとの懸念からだ。私の広背筋と僧帽筋と大円筋とローテーターカフ群を含む背中の筋肉のほとんどは初雁公園のHM-01で作られたと言っても過言では無い。思えば肉体だけでなく意識の奥深くに、生命の危険を感じるほどの真夏の陽の光、雪の中で遊具を握り続けた時の激しい指の痛み、無人の公園内にただ響き渡る雨の音、舞い散る落ち葉、たびたび見かける三毛猫や虎猫、足元を歩く蟻、遊具に飛び散った汗を吸う蝶、鳩や鶺鴒、その他様々な鳥、そしてあの懸垂の苦しみの感覚が渾然一体となり記憶の地層を形成している。遊具をつかむ時私は遊具の一部となり、遊具は私の一部となる。あの公園がなくなるということは、私の肉体と精神が、部分的に切り取られるということに等しい。市役所の窓口に話を聞きに行ったところ、工事はまだ当分先であり、遊具が廃棄されるか移設されるのかは、現時点では決まっていないとのことだった。病名を宣告された患者のような、死刑を宣告された罪人のような、そんな気分になった。人間は死から逃れられないが、同じように公園にも永遠というものはないのだと。進化論から類推すれば、懸垂遊具は絶滅危惧種のようなもので、もし環境さえあれば増殖できるが、現時点では死に絶える定めなのかもしれない。絶滅危惧種が生息する最後の森も再開発の時を迎えているということであろう。時の鐘の声に、諸行無常の響きを感ぜずにはいられない。