2019年4月24日水曜日
公立学校の鉄棒が使えないか市役所に聞いた
以前の記事で悲観的なことを書いた。だが落ち込んでばかりもいられない。我々は初雁公園の死体を乗り越えて進まなければならない。初雁公園の魂を吸収し、これと一体化することでより高みへ到達せねばならないし、それは可能なはずだ。市役所のサイトを見ていたところ、スポーツ振興課の業務内容に「学校開放に関する事務」とあるのを見つけた。もしかして公立学校の鉄棒を使用することができるのではないかと思い、窓口で聞いた。しかし結論から言えばスポーツ振興課はスポーツ団体と学校の間に立ってやりとりをするのが役割であって、個人使用なら学校の教頭先生に直接相談した方がよい、ということらしいのである。これはいいことを聞いた、と思った。ただ、貸してもらおうとする立場からこんなことを言うのも無礼であるが、学校の設備を借りるのは緊急避難的意味が大きい。なぜ私が公園にこだわるのかといえば、それが万人に開かれた存在であるからだ。学校の本来の役割は生徒の学習の場であり教育機関なのであって、この場合は目的外利用と言えるから、許可が必要なのは当たり前なのだが、許可制の使用では公園よりも敷居は高くなる。自分だけでは意味が無い。私の目標は全国民の健康と筋肉量の増大である。だからこその公園なのだ。
2019年4月22日月曜日
初雁公園の死
マスメディアの報道によりショッキングな事実を知った。初雁公園周辺が大規模な再開発をされるとのことである。私はこの報道を読んだ時、胸がえぐられる思いがした。市内唯一無二の懸垂ポイントであるHM-01も、再開発によって解体され、廃棄されるのではないかとの懸念からだ。私の広背筋と僧帽筋と大円筋とローテーターカフ群を含む背中の筋肉のほとんどは初雁公園のHM-01で作られたと言っても過言では無い。思えば肉体だけでなく意識の奥深くに、生命の危険を感じるほどの真夏の陽の光、雪の中で遊具を握り続けた時の激しい指の痛み、無人の公園内にただ響き渡る雨の音、舞い散る落ち葉、たびたび見かける三毛猫や虎猫、足元を歩く蟻、遊具に飛び散った汗を吸う蝶、鳩や鶺鴒、その他様々な鳥、そしてあの懸垂の苦しみの感覚が渾然一体となり記憶の地層を形成している。遊具をつかむ時私は遊具の一部となり、遊具は私の一部となる。あの公園がなくなるということは、私の肉体と精神が、部分的に切り取られるということに等しい。市役所の窓口に話を聞きに行ったところ、工事はまだ当分先であり、遊具が廃棄されるか移設されるのかは、現時点では決まっていないとのことだった。病名を宣告された患者のような、死刑を宣告された罪人のような、そんな気分になった。人間は死から逃れられないが、同じように公園にも永遠というものはないのだと。進化論から類推すれば、懸垂遊具は絶滅危惧種のようなもので、もし環境さえあれば増殖できるが、現時点では死に絶える定めなのかもしれない。絶滅危惧種が生息する最後の森も再開発の時を迎えているということであろう。時の鐘の声に、諸行無常の響きを感ぜずにはいられない。
なぜ鉄棒が無いのか市役所に聞いた
今月(2019年4月)の初めに市の公園整備課窓口へ行き、公園に関する質問をした。内容は以下の通りである。
- q 市内の公園に大人がぶら下がれる高さの鉄棒はあるか。
- a ない。
- q それはなぜか。
- a 自治体からの要望が無いからである。要望があれば検討する。
- q 危険だから作るなという苦情があるからというよりもむしろ作ってくれという要望がないと。
- a その通りである。鉄棒は子供のものであるというのが一般的な認識としてある。
- q 初雁公園の遊具(HM-01)も近隣の自治体からの要望によるものか。
- a 設置の経緯は調べなければわからないが、自治体からの要望とは逆に市から自治体へ打診をし、反対がなければ設置するということもある。
- q つまりボトムアップ型とトップダウン型があると。
- a そう。
- q 例えば私個人が公園に鉄棒を設置しようとした場合、これは可能か。
- a これも自治体を通す必要がある。
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