私はその言葉を聞いて、ぶら下がりながら不意に自分がその幼子と同じくらいの年齢だった頃のことを思い出した。小学一年生の頃、学校の算数のテストで、式と正しい答えを線で結べという問題があった。私は式と答えを正弦波のような波打った曲線で結んだところ、教師に呼び出され泣くまで怒られ自分の書いた曲線を消しゴムで消して書き直しをさせられた、ということがあった。今思えば直線で結べと書かれていない問題に対して曲線で結んで何が悪いのか、いや厳密に考えれば鉛筆で書いた線は線のように見えるが面積を持つ面である、とかいろいろ考えるが、怒った教師の考えもわからなくはない。公教育の目的は国民を作り出すことにあるのであり、直線で書けと言われなかったから曲線で書いたなどという反抗的な子供は何としてでも矯正しなければならないのだと。
今もやはり子供ならそのような状況で生活しているはずで、だからこそ鉄棒にぶら下がって揺れるのは正しいが雲梯でそうするのはおかしいのではないかと考え、「鉄棒じゃないのにぶらぶらしている」という疑問を母に投げかけるに至ったのであろう。
そして大人とされる多くの人々も、未だに公園と遊具に対する固定観念があることは確かであり、だからこそ懸垂可能な遊具が絶滅の危機に瀕しているのである。
あまつさえ公園で運動せんとする人々の間にさえ、まだまだ誤解や偏見が残存しているのではないかと思われる節があるのは問題である。Googleで検索していると、公園で運動するのは恥ずかしい、不審者扱いされる、警察に通報される、などといった話がまさに公園で運動する人々自身から発せられているのは驚きだが、そんなものは単なる被害妄想である。そもそも通報自体は誰でもできるのであって、変な人「を」通報する、ということもあるだろうが、変な人「が」通報する、ということも十分あるだろう。そんなくだらないことを考える暇があったら、いかにして自分の体を持ち上げるのかを考えたほうが有益である。
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ポール・ウェイド曰く、ぶら下がりこそ最も優秀な前腕鍛錬法である |